ブラぶら
木曽路
木曽路はすべて山の中である。
あるところは岨づたいに行く崖の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、
あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。
一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
島崎藤村『夜明け前』の一節。
言うに及ばず中山道の木曽路です。
妻籠や馬籠、木曽福島の関所、奈良
井宿…中山道が五街道に定められた
江戸の時代にタイムマシンなんか使
わなくったって飛んでいけちゃいま
す。人はなんで、古いものに惹かれ
るんだろ?え゛?別に惹かれんって
か?( ̄▽ ̄;)あはは…
写真は木曽路の南の入り口、長野、
岐阜県境の新茶屋地区にある‘是よ
り北 木曽路’の碑。島崎藤村の書によるものらしいです。そう
いえば平成の大合併で馬籠の辺りは県境越えで岐阜県と一緒にな
る…そんなニュースも聞こえてきました。じつはね、いまちょっ
と迷ってます。木曽路に関してはホムペもいっぱいあるし、ガイ
ドブックもたくさん出てるし…わざわざお前が書かんでもええっ!
って言われそうで。ブラぶら。。。らしさ…が出ればいいんです
がねぇ。ま、こちらもとりあえず出発おしんこぉ〜〜!!
贄川宿、平沢&周辺
木曽路の北の端、贄川宿。(あ、たかっちは北から責めました。)
ここに来るまでに2,3寄り道。この辺は中山道と野麦街道が
合流している部分。また、善光寺道と呼ばれることも…野麦街
道は飛騨高山から野麦峠を通り中山道、藪原宿で合流し塩尻で
別れた後松本を目指します。まずこの分岐点、塩尻に程近い洗
馬宿の追分に向かいました。
諏訪湖畔で信州そばと馬刺しの夕食を食べて塩尻で一泊。朝
一番で洗馬へ。今回のブラぶら。。。は出雲と違いあまり下調
べをしてないので行き当たりばったりです。んでも、追分はす
ぐわかりました。道標に『右 中山道、左 北国西往還』の文
字…いやぁ、なんか急にワクワクしてきました。
諏訪湖PAから見た夜景。
結構きれいです。ここは温泉の町らし
くお風呂もあるSAです。
おやきやごへいもちなどのファースト
フードも充実( ̄¬ ̄) ズルル。。。
洗馬…せばって読みます。この近くに湧き水があって昔、木曽
義仲挙兵の際四天王の一人今井兼平がここで落ち合い義仲の馬
の足を洗った…という故事からこの地名が付いたんだって。
洗馬宿からR19を南へ8km。
本山宿を過ぎて桜沢というところ
に『是より南木曽路』の碑。江戸
時代はここに御茶屋本陣があり、
ここで南の尾張領、北の松本領に
分かれていたんだって。今も本陣
の百瀬家が残っているそうですが
時間の都合上パス(-_-;)
昭和16年、茶家主の百瀬さんが
お建てになったらしい。。。
いよいよここからが中山道、木曽路。そういえば中仙道と中山
道…どっちがホントなん?家康君が五街道を定めたときは両方
使ってたみたいだけど正徳6年(1716)に中山道に統一さ
れたんだそうな。理由は…東山道の中筋の道、ということらし
い。東山道とは?え〜〜い、自分で調べい!!!
さて、ここからが本当に木曽路( ̄▽ ̄;)。
贄川の町並みに行く前に(オイオイ…)贄川の駅前で朝食を…
駅前におそば屋さんがあるんだけどここの親父がおもろい人で、
立ち寄った時二人のおっちゃんがお茶飲んでて、結構早い時間
だったんで『もうやってますか?』って聞いたらそのうちの一
人が『どうしてもって言うんならやってもいいけど…』って(-_-;)
『どうしてもお願いします、山菜蕎麦ひとつ…』って言ったら、
おっちゃん『どうしても食べたいって言うんなら蕎麦、作んない
こともないけどどうする?』…まぁ、蕎麦は美味しかったんでい
いけど…
んで、贄川宿。宿場の端っこに口留番所。木曽福島の関所の添
番所として幕末まで北の守りを固めてました。現在の建物は昭和
51年復元で木曾考古館として使われてます。
贄川宿はこれから向かう奈良井や木曽福島みたく観光地ではな
いのでひっそりとして生活臭プンプンです。でも、これがいい
んだにゃぁ〜〜(^。^)格子の入ったどっしりした家が十分宿場
町風情を醸し出してます。
R19に戻ったら南下。4kmくらいで平沢北の信号を右折し旧街道
へ。楢川村役場を過ぎた左側に廿三夜塔の碑。廿三…二十三で
す。二十三夜塔って?昔、日本には月待講というのがありまし
た。特定の月(1月、5月、9月、11月など)の特定の月齢(十
三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十六夜など)の夜に集まっ
て飲み食いする…その中でも二十三夜は真夜中に昇る下弦の月。
がんばって真夜中まで起きて月が昇るのを拝めば特に願いが叶
う月待講として全国で行われていたみたい。で、その飲み食い
の記念に立てた塔(?)です。この廿三夜塔は文化7年(181
0)建立。横に二十三夜様の案内板も。 少し行くと平沢の町
並み。平沢は漆器の町で、現在も古い漆器屋さんが軒を連ねて
います。う〜ん、ここもす・て・き!
平沢の南入り口に立つ道標と道祖
神。道標は昭和47年、道祖神碑は
文化3年(1806)建立。
奈良井宿
標高940m。木曽路の中最も高いところにある奈良井宿。
かつて「奈良井千軒」と言われ木曽路一の賑わいを誇った宿場
町。手元に享保九年(んと、1724年かな?)の記録があります
が、旅籠三十三軒、商家七軒、塗り物師四十四軒、檜物師九十
九軒、他三十六軒…1.2kmの町並みは街道指数100%。
朝早く着いたので駅前に駐車スペースがありました。駅から
まず二百地蔵を目指しました。JR中央本線開通のとき街道沿い
にあった石仏を集めたもので、ここから今通ってきた贄川に続
く杉並木の旧街道は趣があります。
あとは町並みへ戻ってブ〜ラぶら。結構観光地化されてるので
わぁ〜わぁ〜きゃぁ〜きゃぁ〜言いながら歩けば楽しいっす。
旅籠…はたごって読める?ず〜っと昔、旅の宿といえば食事なし
で泊まる木賃宿しかなかったそうな。一日分二合五勺の糒(ほしい)
を持ち歩いて宿で薪を買い湯を沸かし糒を戻して食べてたんじゃ
と。この薪代でとまる…木賃宿ってこと。馬のアオは荷物の他に
自分のご飯も運ばんといけんし。でもこれじゃ不便でしょ?もと
もと‘はたご’って馬の飼料入れの籠のことで最初は馬のご飯だ
けを出してくれるようになって、この宿が旅籠と言われてそのう
ちしたら人にもご飯を出してくれるようになったんだってさ。今
で言う素泊まりと一泊二食付きみたいなもんか?ご飯を出すとな
ると人でもいるしってんで飯盛り女が生まれてその中には遊女ま
がいの飯盛り女も結構いたそうで、今で言う・・・みたいなもん
か( ̄▽ ̄;)。
宿場の向こうに鳥居峠。 鳥居峠の石畳。
この日は祝日で朝早くからたくさんの観光客でにぎわってました。
でも、街道一の難所と言われる鳥居峠の入り口辺りはひっそり。
写真では解りにくいんですが黄色い山吹の花が満開です。古の旅
人もほっと一息ついたんでしょうかねぇ?
鳥居峠&藪原宿
ゆっくり時間があれば鳥居峠を歩いてみたかったんですが一泊二日
ではちょっとね…奈良井の町並みからR19に戻って新鳥居トンネル
を越え、右手にGSが見えたら右折して藪原宿へ。中央本線をくぐっ
て右手にまたGSがあるので右折。木祖村公民館の敷地内、蒸気機関
車の傍らに一里塚…の跡の碑。贄川もそうだけど一里塚って石碑な
んかと違って木が枯れてたらおしまいじゃない。だからあまし残っ
てないんかね?ここから道なりに登っていくと薮原宿の町並み。防
火塀の跡、水場、本陣跡…お六櫛の問屋さん。そうそう、野麦峠へ
の追分も宿場のはずれにありました。時間がないので車で行けると
こまで…ってがんばって鳥居峠へ。木曽路は昭和47年前後に一大
整備事業…かなんかあったみたい?鳥居峠に向かう道筋にも割と新
し目の道標。
宮ノ越宿
山吹トンネルを抜けて木曽川を二回渡ったら左折。宮ノ越宿へ。
ここは木曽義仲が二才のときから挙兵までの二十五年間過ごして
いたところ。木曽義仲…源義仲のこと。源頼朝の従弟にあたる人
で『平家にあらずんば人にあらず』だった平家を破り入京を果た
し征夷大将軍までなった人。再来年には大河ドラマで義経やるみ
たいなんでそこで詳しくやると思うけど、結局義経(ってか、頼
朝?)にやっつけられっちまうんよね。ま、たかっちは歴史家で
はないので義仲についてどーこーは言わないけど、義仲や巴(御前)
がこの地で遊び、育ったんだなぁと思うと、それなりに感慨深く
なっちゃったりなんかします。
瀬戸内海に大三島に大山祗神社があります。国宝の武具甲冑の
7割(…いや、8割だったかな?)がここの宝物館にあるって
社なんだけど、ここに義経の刀とか弁慶の薙刀とかがあるのよ。
でガラスケースにしまわれてるんだけどすぐ手が届きそうでな
んかどきどきしたことがあります。ん?あ、別に関係ない話し
なんだけどね。